教えのやさしい解説

大白法 474号
 
約教・約部(やっきょう・やくぶ)
 約教・約部とは、天台宗の五時八教判(ごじはっきょうはん)における二面のあり方をいいます。つまり、約教は、八教のうち特に化法(けほう)の四教(しきょう)に約した教判で、約部は、五時の経部に約した教判です。
 約教とは「教に約す」ことで、一切の経々の内容となる蔵通別円(ぞうつうべつえん)の四教について、勝劣浅深を判ずることです。簡略にいうと、蔵教(ぞうきょう)は小乗の分析的(ぶんせきてき)な空(くう)のみの教え、通教(つうきょう)は当体を即空(そっくう)と説く大乗の初門、別教(べっきょう)は空は空、仮(け)は仮、中(ちゅう)は中と三諦(さんたい)を各別に分析した教え、円教(えんぎょう)は一を挙げればそのまま三諦が円融相即(えんゆうそうそく)した当体であると説く完全な教えである、ということです。
 この約教の判釈(はんじゃく)では、蔵通別の前三教を麁法(劣った粗雑な法)・権教と下し、後の円教のみが妙法・実教であると示します。この場合、一往、爾前諸経の円教と法華経の円教は、同一であって差別のないものと判じ、与えて爾前諸経にも得道の利益があると釈されます。これを約教与釈(よしゃく)といいます。
 次に、約部は「部に約す」ことです。部とは華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五部で、五時と同義です。華厳部には別教と円教、阿含部には蔵教のみ、方等部には四教のすべて、般若部には通教・別教・円教が、それぞれ合わせ説かれています。また法華涅槃部のうち、法華経は円教のみですが、涅槃経は法華開会(ほっけかいえ)の上から、四教すべてが説かれます。
 さて、小乗の阿含部以外の華厳・方等・般若・法華涅槃には、円教が説かれます。しかし華厳部は別教、方等部は前三教、また般若部は通教・別教といった麁法(そほう)・権教(ごんきょう)を含んでいるので、円教の真義が顕れていません。例えば、金・銀・銅・錫(すず)を掛け合わせて作った物に、金の真価がないのと同じです。故に約部の上からは、円教が説かれる華厳・方等・般若の諸大乗経も、未顕真実(みけんしんじつ)の方便権経と下され、法華経のみが純円一実の妙法と判じられるのです。このため、再往、爾前諸経には得道の益がないと、奪(うば)って釈されます。これを、さきの約教与釈に対して、約部奪釈(だっしゃく)といいます。このような点から、妙楽大師は『法華文句記』に、
 「今教八に於て何に属するや。もし超八(ちょうはち)の如是に非ずんば、安(いずく)んぞ此の経の所聞(しょもん)と為(な)さん」
と、法華経は八教を超越した経。すなわち法華超八・超八醍醐(だいご)であると明かしています。 以上のように、麁妙・権実を判ずる約教約部には、与奪(よだつ)の違いがありますが、法華円教の立場は、約部を正意(しょうい)とするのです。特に日蓮大聖人は、天台宗よりも徹底した約部判をもって、爾前権宗を破折されました。なぜなら、大聖人の御化導(ごけどう)の主意は、本迹・種脱の相対により、再往、文底下種の大御本尊を建立されるところにあったからです。この点、初期の御書ながら、『唱法華題目抄』では、
 「法華経の本門にしては爾前の円と 迹門の円とを嫌ふ事不審なき者なり。爾前の円をば別教に摂(しょう)して、約教の時は『前三(ぜんさん)を麁と為し、後一(ごいち)を妙と為す』と云ふなり」(御書 二二 九)
と、約部判の上からは、爾前の円は別教に含まれる麁法となり、また本迹相対の立場からは法華の円の中でも迹門の円は本門の円に劣ることを明示されているのです。